日本の アフターパーツ業界と ともに歩んで

VOL.299 / 300

中嶋 敬一郎 NAKASIMA Keiichirou

株式会社共豊コーポレーション 代表取締役 NAPAC 会長
1957年生まれ。熊本県出身。幼少期より東京に移住し、23歳で共豊コーポレーションに入社、2007年より代表取締役就任。JAWA事業部長を4期8年間務めた後、2023年よりNAPAC会長就任。

HUMAN TALK Vol.299(エンケイニュース2023年11月号に掲載)

1960年代後半、高度経済成長期から日本のアフターパーツ業界を支えてきた卸売業の雄、株式会社 共豊コーポレーション。代表取締役を務める中嶋敬一郎氏がこの度NAPAC(一般社団法人 日本自動車用品・部品アフターマーケット振興会)の会長に就任することとなった。今回は氏に成長期の自動車業界を振り返っていただきながら、NAPAC会長就任に伴う今後の抱負を聞いた。

日本の アフターパーツ業界と ともに歩んで ---[その1]

生まれは九州熊本で小学生の頃に東京へ、その後は東京で学生生活を送っていましたが、大学受験でつまずき長い浪人生活を送っていた時期もありました。2浪あたりからは勉強よりアルバイトの方に熱が入っていきまして、さまざまな飲食店の接客仕事をはじめ工事現場、産業廃棄物処理の仕事などいろいろな仕事を経験しました。当時大卒の初任給が7、8万円の頃に月に35万円ほど稼いでおりましたから今思えば凄い稼ぎでした。

昭和当時の東京営業所

アルミホイールって何?

 そもそも私は船乗りになるのが夢で、5浪をした理由も東京商船大学(現東京海洋大学)を志望していたからなのです。正直に言うと自動車にはあまり興味がありませんでした。船の壮大さや大きさに憧れがありましたから、自動車の車内の狭さなどがどちらかというと苦手で、免許は持っていましたがドレスアップやアルミホイールなんて発想すら無かったのです。ところが、5浪もしていると親も心配に思うのでしょう、父の知人伝いで共豊コーポレーション(以下共豊)という面白そうな会社があるぞと紹介を受けたのです。これからの時代は車やカスマイズの世界が趣味としてどんどん伸びていくという期待感もありました。アルミホイールはおにぎりを包む銀の紙のことだと勘違いしていましたので、売上高を聞いた時は本当に驚きました。「アルミホイルはそんなに売れるのか!?」と、今思えば可笑しいですよね。

1979年当時の共豊本社

昭和のアフターマーケット

 あの頃の勢いや忙しさは尋常では無かったですね。誇張ではなく右手と左手で受話器を手にお客さんからの注文を受け続ける、パーツは仕入れれば仕入れただけ売れるようなそんな時代でした。入社した頃は車の知識もお店の知識も何もありませんから、営業として電話を受けていましたけど大混乱、大迷惑を掛けたと思いますよ(笑)。
お世辞にも格好良いとは思えないようなマフラーが結構売れましたし、カヤバやモンローのショックアブソーバー、プラグコード、もちろんエンケイさんのホイールも飛ぶように売れていました。少しでもノーマルからいじれば改造車検の時代でしたが、とにかく売れました。アルミホイールが10トントラックで運ばれてきて、降ろした荷物に片っ端から荷札を貼りそのままショップへ発送されていましたから。今のようにセルアウトなんて考える必要はなかったと思います。お店にセルインすれば売れた時代、モノを持っていれば勝ちという時代でした。共豊という会社はもとよりこの業界自体、そしてマーケットに非常に勢いがあったなと思います。

オリジナルブランド「AME」のアルミホイール

JAWAの事業部長として

 2003年には名古屋本社へ転勤、2007年からは代表取締役就任という運びとなり、2015年からJAWA(ジャパンライトアロイホイールアソシエイション)の事業部長を4期8年間務めさせていただきました。JAWAは国内に流通するアルミホイールの安全性と信頼性を担保する機関でして、一定の性能基準をクリアしたホイールにはVIAマークの刻印とJAWA品質認定証のステッカーが付与され、それがユーザーの方の安心を担保するわけです。
 ところが、私が事業部長に就任した当時はJAWAとして抜き打ちテストを行うと、ちょっと不良率が高い傾向にあったのです。いくら工業製品とはいえこれは看過できないと思い、不良率ゼロを目指さなければと動き始めました。委員会のあり方を見直して品質向上委員会を作る、広報のあり方を見直すため広報委員会を作る、流通に関しての問題があれば流通委員会を作るなど、それぞれの委員会に現場の営業のトップクラスの人を集めて真剣に議論を活性化させていきました。ただ、私はサプライヤーでモノづくり側の人間ではありませんから、株式会社タナベの田邊社長とエンケイの寺田執行役員というメーカーの重鎮に副部長としてご尽力いただきました。講習会で毎回品質の問題に関する話を口酸っぱく言い続けたり、繰り返し繰り返し言う事でだんだん皆の意識が変わり、コロナが始まる前あたりには目に見えるほど不良率も下がっていきました。

HUMAN TALK Vol.300(エンケイニュース2023年12月号に掲載)

日本の アフターパーツ業界と ともに歩んで ---[その2]

 JAWA(ジャパンライトアロイホイールアソシエイション)の事業部長を4期8年間務めた後、本年(2023年)よりNAPACの会長に就任させていただくことになりました。NAPACとはアフターパーツの振興を目的とした団体で、JAWAと違い3つの事業部で構成されています。スポーツマフラーを主体としたJASMA、モータースポーツやパーツ、アクセサリーを主体としたASEA、そしてホイールのJAWAです。

2023東京オートサロン with NAPAC

2017年東京オートサロン with NAPACにて

NAPACの改革

 本来で言えばNAPACの中は3つの事業部に分かれている必要は無いのです。ですがさまざまな経緯もあり、各々が単独で活動してきた団体が一つの傘の下に入っています。JAWAの事業部長として長年やってきた私ですが、これからはNAPACの会長としてそれぞれのパーツに対するウェイトは平均的に愛情を注いでいかなければなりません。そのためにもまずはNAPACという会の活動に、なるべく多くの会員が興味を持ち参加していただくことが肝要と思っています。そこで私としてはJAWAでやっていたように委員会を作り、それぞれの委員会ごとに喧々諤々と話し合い、討議をしてNAPACの理事会で最終的に判断していこうと考えています。理事会だけで多くのことをやっていくには限界がありますから、それぞれの委員会で議論を重ね、ある程度ジャッジしていく。委員会活動を強化することでトピックをもっともっと深掘りもできるし、良い意見も出てくるのでは思っています。
 例えばモータースポーツの世界は奥深いので誰もがわかるわけではありません。であればモータースポーツを得意とする方々を集めたモータースポーツ委員会を作り、モータースポーツのことを徹底的に討議してもらう。もう一つは多くの会員が関係するドレスアップやカスタマイズ、イベントを中心とした委員会も設けます。そして最後は知名度を上げるための委員会。NAPACと言っても業界の人なら知っていますが、一般の方に対してはまだまだ知名度は低い。やはり知名度を上げること、どんな活動をしているかを認知してもらうことは急務だと思っています。そのために経産省や国交省など関係省庁との繋がりを深くしていくほか、カー用品の枠組みを超えてアウトドア業界やフード業界など、他団体や異業種との繋がりも深く広くしていき、タイアップなどもしながらNAPACの認知を広め、活動を伝えていけたらと思っています。

NAPAC主催の走行会

NAPAC主催の走行会(ドライバーズミーティング)

自動車の世界を超えていく

 今、自動車を取り巻く環境はどんどん変化しています。人々の車への興味関心の希薄化や、内燃機関からEVへのシフトなど、変動ファクターの多さ、速さもあり従来のアフターパーツが永続的に売れるという保証はどこにもありません。ただ自動車の存在自体が無くなることはありません。むしろ生活に深く根ざしたツールとして、前述のように他団体や他業種との交流、そして繋がりを持つことにより、新しい車の楽しみ方やカスタマイズする面白さというものを違うアプローチで提案できるのではと思っています。例えば「キャンプに行くとしたら車をこのようにカスタマイズしたらもっと使いやすい」とか、逆にアウトドアブランドからこういうパーツが欲しいと提案を受けるとか、横の繋がりを深く広くすることで車の楽しさや新たな可能性が広がっていくのではと思います。それと会員の方に向けた勉強会をもっと催していきたい。まだまだ狭い範囲でしかビジネスが見えていない会員も多いので、そのような方々に視界や認識が広がるような有益な情報を供給していきたいですね。
 もうこれからは昔のように黙っていてもモノが売れる時代ではありません。NAPACとしてもユーザーに最高のドキドキ感、ワクワク感を与えたり、今まで知らなかったパーツを知っていただいたりする機会を設けることが大切です。自動車はホイールをはじめ、さまざまな用品が集まってできているものですから、全てのパーツを司るNAPACとしても一つの車として総合的にユーザーへ提案するような活動をして相乗効果を生んでいきたい。それが3つの事業部を治めるNAPACとしての存在意義になるのではと考えています。

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